『神様』

 16時57分。改札前にあるモニュメントのそばに立ち、ケイスケは携帯の通知画面に何度も目をやった。もうすぐサトミと待ち合わせの17時。空はよく晴れている。秋が近づいているがまだ長袖は要らない。もしかしたら夜は冷えるかもしれないが、下手に長袖を来て汗をかくよりはマシだ。そう思っていると、通知画面にサトミから「いま改札出るよ!」とメッセージが入った。ちょうど電車が着いたところなのか、改札から沢山の人が溢れ出した。やがてその中に、若い一人の女性がこちらを見ながら近づいてくるのが見えた。あれがサトミだろうか。あんな顔だっただろうか。屈託のない笑顔でどんどん近づいてくる。ああ、サトミだ。確かにああいう顔だった。

 

 二週間前、ケイスケは通っているピアノスタジオの発表会に出ていた。下は幼稚園生の小さい子から上は音大生まで、20人程度の生徒が通う小さな教室である。上京して都内の普通の四大に進学後、それまで続けていたピアノを細々とでも続けたいと思ったケイスケは下宿先のアパートの近くにそのスタジオを見つけた。あくまでもケイスケが欲しかったのはピアノの練習環境だけで、もう先生についてレッスンを受ける気などはなかったので、週に2回程度お金を払ってピアノを借り、一人で気ままに弾いていたのだった。

 もちろん、ケイスケの大学にもクラシック音楽同好会のようなサークルは幾つかあったし、そこに入れば学内のピアノを無料で使うことができた。しかしケイスケはそれに入らなかった。わざわざ大学でまでそういうサークルに入る学生はきっとケイスケより桁外れにピアノの上手い自信満々な奴らが多いのだろうし、何よりケイスケは自分と同年代の不特定多数の集団に溶け込める自信がなかった。もちろん、実際に喋ってみるとみんな良い奴なのだろうというのは薄々分かっている。自分から積極的に場に馴染もうとすればきっと友達はできるだろう。運が良ければ彼女だってできるかもしれない。でもやっぱり「不特定多数の集団」がケイスケには怖かった。語学の授業で隣の席の学生と退屈な日常会話の練習をさせられるとき以外、ケイスケは大学で声を発することはなかった。高校生まではそれほど孤独なタイプでもなかったのに、なぜ突然そうなったのか自分でも不思議だった。

 アパートに帰るとまず窓を開け、部屋の空気を入れ替える。簡単に掃除を済ませたあとシャワーを浴び、夕飯を作る。誰に言われたわけでもないのにケイスケはこの順番を欠かさず守った。夕飯は日替わりで鶏肉か豚肉を使い、これに適当な野菜を入れ適当な調味料で炒めたものを用意する。それをつまみつつ、近所で借りてきたレンタルDVDを観ながら時間をかけて缶ビールをちびちびと飲むのである。缶チューハイの類は翌日まで身体にアルコールが残ることがあるので決して飲まない。350ml缶のビールを大体3本、調子の良い日は5本程度飲めば心地よい酩酊が訪れる。そのためにはビールの銘柄も浮気せず毎日同じものを飲む。そして、飲んでいて少しでも眠気を感じたら酩酊の快楽をそれ以上引き伸ばそうとせず潔く眠る。これが毎晩安定してアルコールを楽しむためにケイスケが確立した飲酒の作法である。そうして朝は一定の時間に起きてまたシャワーを浴び、茹でたうどんを食べてから大学へ行く。出席すべき講義とサボっても構わなさそうな講義を冷徹に見極め、前者には必ず出席し、後者は必ずサボり、スナイパーのように粛々と単位を取り続けた。

 ケイスケの暮らしはあまりに規則的であり、あまりに孤独であった。規則的だから孤独なのか、もともと孤独だから規則的にならざるを得なかったのかはわからない。孤独を寂しいと思ったことはなかったが、うまく言葉にできない漠然とした不安が常に胸の中にあった。自分はこのまま大人になっていくのだろうか。これでいいのだろうか。自分は何をやりたいのだろうか。不安を抱えながらも、その不安をうまく誤魔化すための中途半端な器用さを持ってしまっているために余計に自分は良からぬ状態へ向かっている気がした。自分は客観的には決して引きこもりというわけではないが、もしかしたら引きこもり以上にタチの悪い人生を送るのかも知れない。この規則的な暮らしこそ、もしかしたら自分のどん底なのかも知れない。あるいはどん底ですらなく、どん底の一歩手前でいつまでも停止し続けている、長期的に見れば最も危険な状態なのかも知れなかった。

 そうしてやりたいことも見つからないまま大学の卒業も近づいてきたある日、通っているピアノスタジオを主宰する先生から、今度の発表会に出てくれないかと言われた。決して規模の大きい発表会ではないものの、少しでも盛り上げるために出演する生徒を増やしたかったのだろう。発表会で自分の出番を待つ間のあの重苦しい緊張は何度も味わったことがあったから気が引けた。それでも、数合わせとはいえこんな自分が誰かに頼ってもらえたことが少し嬉しかったし、練習も自分のペースでやれば良いので、あっさり出ることにした。

 発表会は区民ホールの一室を借り切って行われた。ホールというよりは大きな会議室のようなスペースで、椅子が100席ほど並び、正面にピアノが置かれていた。ケイスケはスタジオの生徒の中でもかなり年長の部類だったので、当日に見たプログラム表では出番は最後から四番目ということになっていた。弾くのはシューベルトピアノソナタ十九番とリストの『愛の夢』の二曲だ。出番を待っている間、極度の緊張がケイスケを襲った。知っている感覚だ。今まで何百回も弾いてきた曲のはずなのに、冒頭から全てをド忘れして全員の前で大恥をかく被害妄想が頭をよぎる。中学生の時も高校生の時も、発表会の前では必ずこの被害妄想に苛まれた。苦しくて、どうして自分はこんなに辛い思いをしなきゃいけないのかと思った。その度に自分をピアノ教室なんかに通わせた親を恨んだ。自分からピアノを習いたいと言ったことなんか一度もない。所詮、子どもに習い事をさせるという親の自己満足に自分は付き合わされてきただけである。しかし今回は、自分の意思で出演を断ろうと思えば断れた機会だ。なぜまた苦しい道に来てしまったのか。自分というものがないのか。そんなことを堂々巡りで考えていたら、名前が呼ばれた。出番が来た。ゆっくりとピアノの前まで歩き、客席に向かって一礼する。ピアノの前に座り、鍵盤に手を置く。最初の二小節を弾く瞬間、全てがスローモーションに見えた。この感覚も知っていた。緊張と集中が最高潮に達すると、世界は映画のコマ送りのように見える。指は確かに動いていた。よかった、ド忘れはしていなかった。急に安心して身体の力が抜けてくる。そしてその後弾き続けている間の記憶はほとんどない。あっという間に、気づけば『愛の夢』の最後の音を弾いていた。

 ケイスケの後の生徒たちの演奏、そして最後の大トリで先生の演奏が終わると、先生の謝辞のスピーチがあってから発表会はお開きとなった。ぞろぞろと会議用の長机がいくつも出され、紙コップのジュースやお菓子類が並べられて、その場で打ち上げが始まった。出演した生徒の数自体はそれほど多くはないが、呼ばれて聴きに来た各々の知り合いや生徒の家族などでそれなりに人の数は多かった。当然、ケイスケはこのスタジオですら他人との接点がほとんどなかったので、誰と話すでもなく紙コップのウーロン茶を持ちながら所在なさげに立っていた。ケイスケの直後に演奏した、音大在学中の男子学生とその友人達らしい何人かの会話が聞こえてきた。あそこが良かったとかダメだったとか、ケイスケにもわからない難しい用語を交えながらピアノの話で盛り上がっている。つくづく世界が違うな、とケイスケは思った。彼らは明るく意欲的にピアノに取り組んでいる。しかしケイスケは違う。ケイスケが今も細々とピアノを弾くのは、一言でいえば単なる自己の確認作業である。一度自分が身につけたことが自分の身体から抜けていくのが単に嫌で、あるいは今まで弾いていた習慣がバッサリなくなってしまうのが単に気持ち悪かっただけである。つまり自分が何らかの意味で変わっていってしまうのが怖くて弾いてきただけなのだ。だから、もっと上手くなりたいとも思わないし、今更新しい曲を覚えようとも思わない。一度作り方を覚えた同じ料理を何度も作って食べ続けているのと同じだ。普通はその料理に飽きが来て作るのをやめてしまうか、もしくは他の料理も作れるようになろうとして色々とチャレンジをするだろう。しかし自分はなぜか同じことを同じパターンでずっと繰り返して満足してしまうのだ。やっぱり、自分はどこかおかしいのだ。

 少し沈みかけた気持ちをかき消すかのようにケイスケはお茶を一気に飲み干すと、先生に一言挨拶を済ませて会場のドアを出た。その時、

「あの」

と後ろから声をかけられるのが聞こえた。

「リスト、好きなんですか?」

 振り返ると、若い一人の女性がにこやかに笑いながら立っていた。ケイスケが返事をするよりも前に驚いたのは、女性が髪の毛を明るい紫色に染めていたからである。どこかの山奥で発掘される珍しい鉱石のような色であった。瞳の色はグレーで、おそらくこれも何かを入れているのだろう。耳には穴が幾つも開いており、目視できるだけで3つもピアスを着けている。そして黒いワンピース。なるべく冷静に対応しようとケイスケは自分に言い聞かせた。

「あ、いや、特別好きというわけじゃないんですけど。昔習っていた先生に薦められただけです」

「そうなんですね。めっちゃ弾き込んでるなーと思って」

 弾き込んでいる。そうなのだ。弾き込んできたのだ。なぜなら曲のレパートリーが少ないからだ。才能があるわけでもなく物覚えも決して良くないケイスケは、数少ない曲を弾き込まざるを得なかったのである。その中でもこまごまと音数の多いリストの曲は、几帳面な性格のケイスケにうってつけだった。弾き込んでいるというのは褒め言葉でありながらケイスケの恥ずかしい部分を鋭く突いた。この人は一体誰なのだ。

「ありがとうございます。…えっと、ここの生徒さんですか?」

「自分は違うんですけど、大学の友達が出るんで、誘われて聴きに来たんです。最後の◯◯君です」

「ああ、そうなんですか。じゃあ、音大でピアノをやられてるんですか?」

「いや、私はトランペットやってます」

 彼女の派手な出立ちと、「音大でトランペットを専攻している」という情報があまりにも不思議な組み合わせだった。音大に入ってまで楽器をやるくらいだから、きっと小さい頃から真面目に楽器に打ち込んできたのだろうし、今もそうなのだろう。ケイスケとは「世界が違う」ほうの人だ。そんな人でも、こんなギラギラのファッションを好むことがあるのだということが意外だった。そのことでしばらくケイスケの頭はフリーズした。会話を繋げることができなかった。

「…ありがとうございました。」

 よりよって、ケイスケはそう小さく声を絞り出して会話を打ち切ってしまった。明らかにトランペットの部分を掘り下げて何か質問するべきだったが、頭がうまく回らなかった。普段から人と碌に会話をしていないからこんなことになるのだ。本当はもう少し話したかったのに、無理に言葉を繋げようとして自分のボロが出てしまうのも怖かった。何重もの意味で自分が情けなかった。

「LINE訊いてもいいですか?」

立ち去ろうとするケイスケの横顔に、サトミが言った。

「あ、はい」

慌ててケイスケは携帯を取り出した。しかしLINEのアプリを開くのもあまりに久しぶりだったので、友達登録の仕方が分からなかった。何もかも、サトミに助けてもらった。

 

 ちょうど電車が着いたところなのか、改札から沢山の人が溢れ出した。やがてその中に、若い一人の女性がこちらを見ながら近づいてくるのが見えた。あれがサトミだろうか。あんな顔だっただろうか。屈託のない笑顔でどんどん近づいてくる。ああ、サトミだ。確かにああいう顔だった。顔を認識するのに時間がかかったのは、二週間前の発表会で会ったあの日からサトミの髪の色が変わっていたからである。今度はエメラルドブルーになっていた。高校時代の地理の授業で資料集に載っていたオセアニア諸島の海の色を思い出した。改札の人の中で明らかに目立っていた。

「お待たせ。行こ」

 二週間前から、サトミとメッセージのやり取りをするようになった。同年代の若い女性とのメッセージのやり取りはケイスケにとって常に緊張感があった。サトミからのメッセージをこちらが読むと「既読」のマークが表示されるから、なるべく間隔を空けずに返信するには長文を推敲している時間はなく、それでいて気の利いた一文を毎回考えて送り返すのはケイスケにとって大きな集中力を要した。しかし、おかげでサトミについて幾つか知ることができた。中学までピアノをやっていたが高校で吹奏楽部に入ったのを機にトランペットを始めたこと、音大で専攻しているのはクラシックではなくジャズであること、歳はケイスケより一つ下であること、意外にも運送のアルバイトをしていること、等々。そして、話の流れで飲みに行くことになった。二週間ぶりに会ったサトミは、前と同じようにニコニコと笑っていた。

「久しぶり。髪の色、変わったんだね」

 ケイスケはつとめて冷静に言った。

「そう、飽きたから変えたの。もう髪パッサパサ」

 そう言えばケイスケが小さい頃、高校生だったケイスケの兄が髪をうっすらと茶色く染め、それを母親に見破られて勘当寸前の勢いで激怒されているのを見たことがあった。髪をうすく染めただけでうちの家ではここまで言われるのかと子供心にケイスケは不条理に感じたが、そうした不条理に巻き込まれず穏便に生きられるなら自分は髪など一生染めなくて良いやと思った。そうやって、自分の同年代の間で流行っているもの一切に興味を示そうとしないケイスケの性根が少しずつ作られていった。そんな自分が今、エメラルドブルーの髪の女の子と一緒に歩いているのがとても不思議だった。

「海の色みたいだね。…じゃ、行こうか」

 ネットで見つけた、安すぎず高すぎず、やや個性的なメニューがあり、それでいて客席も比較的広そうな焼鳥屋に行くことになっていた。自分の行きつけかのごとくサトミにはさり気なく教えたものの、事前にケイスケが血眼になって周到にリサーチした店であった。その時、

「あ、タピオカ屋ある!飲んで行こうよ」

とサトミが言った。言われるがまま、屋台でタピオカを買って飲んだ。ケイスケは人生でタピオカを飲みたいと思ったことなど一度もなかった。ミルクティーを原価の安い固形の澱粉でかさ増ししただけの浅ましい飲み物だと認識していた。しかし、サトミが飲みたいと言ったから一緒に飲んだ。ケイスケはまだ少し緊張していたから味はよくわからなかったが、サトミはずっとニコニコ笑っていた。

 その後あらためて焼鳥屋へ行き、たらふく食べて飲んだ。サトミはビールやカクテルや焼酎など色んなお酒を飲み、ケイスケはひたすらビールを飲み続けた。途中、

「タバコ吸っていい?」とサトミが訊いた。

「どうぞどうぞ、遠慮しないで」

 気を遣ったのではなく、心からそう言った。サトミがタバコを吸うところを見てみたかった。サトミはハイライトを一本取り出して火をつけると美味しそうにプカプカと吸い始めた。それが、女性が吸うにしてはかなり重たい銘柄のタバコであることを、ケイスケは帰ってすぐに検索して知った。パッケージの色とサトミの髪の色が同じなのが面白かった。

 サトミとはずっと音楽の話をした。ケイスケが事前に調べておいたところ、ジャズでトランペットといえばマイルス・デイヴィスという偉人がいるようだから、ケイスケはマイルスについてありったけのことを調べてサトミと話ができるようにしておいた。しかしケイスケがマイルスの名前を出すと、サトミは「私マイルスあんまり好きじゃない」とあっさり言ったので面食らった。でもその分、サトミは自分が好きな音楽の話を沢山してくれた。マイルスのように静かに作り込まれた音より、もっと明るくて伸び伸び吹くプレイヤーが好みらしかった。ケイスケはサトミの話を興味津々で聞いた。そういえばケイスケはトランペットという楽器の仕組みについて何も知らなかったから、そもそもどうやって音を出すのかなど、色んなことを手当たり次第に訊いた。思い浮かんだことを素直に訊く方がよほど会話が盛り上がった。

 サトミの部屋は汚かった。本やら服やら色々なものが床に散乱していた。しかし不思議と水回りだけは綺麗で、女性の家はこういうものなのかと思った。そしてサトミのこだわりなのか、ベッドのシーツは赤で統一されていた。

 それからサトミの音大でのライブを何度か聴きに行くようになった。サトミが話していた通り、サトミのグループは明るくてノリの良い曲をやることが多かった。リー・モーガンの『ドミンゴ』をやった時のサトミのアドリブソロは特に明るくてカッコよかった。いつの間にか、ケイスケはピアノスタジオに通うのをやめた。なんとなく心が軽くなった。

 

「お茶買ってきて、2リットルのやつでお願い」

 サトミからメッセージが入った。お茶と、40形の電球を買ってサトミの部屋へ向かった。部屋の玄関の電気がずっと切れたままになっていたからだ。こういう生活の小さな不便にサトミは鈍感だった。こういうことは気づき次第即座に直すことが生活を快適にするコツである。しかし、ケイスケがサトミにしてあげられるのはそれらをこまごまと直してあげることくらいだった。

 そう言えばサトミはマイルスが嫌いだと言っていたが、どうしてあの日リストを弾いたケイスケに声をかけてきたのか、そのことをケイスケは今も訊けずにいた。

 

 

 

《おわり》