『雪』

 上司から今日は全員さっさと帰って下さいと言われ、定時より少し早くオフィスを出た。年度末の山積みの仕事から逃れる言い訳ができた。明日から余計に大変になることもわかっていた。

 

 午前中から降り始めた雪はわずかに強くなっていたが、気象庁が大袈裟に警告していたほどではなかった。踏むたびにムギュムギュと鳴る雪の上を歩いた。それだけで楽しかった。仕事で扱う会社のカネや、ゼイキンや、サイケンやサイムは、男にとって時に全てが画面の向こう側のフィクションのように感じられたが、目の前の冷たくて白い雪は現実だった。

 

 交差点を左に渡ると男がいつも使う地下鉄永田町の階段だ。しかし、今日は交差点をまっすぐ前に渡って赤坂の方へ歩いた。特にどこか行く当てがあったわけではない。ただもう少し地上にいたかった。

 

 赤坂の繁華街は、通り沿いは明るいが、少し折れると驚くほど暗く狭い路地が沢山ある。その路地を歩く数十秒間の、身体が周りに黒く溶け出していくような感覚が好きだった。ふと路地の脇を見ると、小さなバーの看板があった。「bar タナカ」と黄色く灯っている。看板の下の方にガムテープが横に真一文字に貼られていて、その上から「張り切って営業中!」とマジックで書かれている。バーなのに「張り切って営業中!」とはいかにも妙だ。字も汚い。この店には絶対に何かあると男の直感が働いた。階段を地下へ降り、ドアを開けた。

 

 店の中は、奥へと長く、しかし狭い空間だった。カウンターと小さなテーブルが二つ。カウンターの一番奥の席に客が一人座っていた。他に客はいない。その客の前には、カウンターを挟んでマスターが立っていて、客と何やら会話をしていた。

 

「でもさあ、そんなの作られちゃったら店側はたまったもんじゃないよ」

「そうなんだよなあ。そこさえクリアできれば完璧なんだけどなあ」

 

 店に入った男は、コートを脱ぎつつカウンターの手前から二番目に座った。やがてマスターがこちらにやってきて、おしぼりを広げて渡してくれた。

「いらっしゃいませ。はい、どうぞ。こちらのおしぼりはですね、メタルスネークガスを配合してあるんです。殺菌効果抜群です。でもあんまり触りすぎないで下さいね、手がただれますから」と言った。

 男は言われるままにおしぼりを受け取り、注意深く一度だけ手を拭いた。メタルスネークガスが何なのかは全くわからなかった。それでもどこかリラックスできたのは、店内のステレオでバド・パウエルのピアノが流れていたからかも知れない。

「うちはね、メニューがないんです。その代わり、飲みたいものがあったら自由に言って下さい。何でも作りますから」とマスターが言った。

 こういうときはマスターのチョイスに任せるのが一番だ。ただし酒の種類は最低限指定した方がいい。

「じゃあ、何かおすすめのウイスキーをシングルのロックでいただけますか」

「かしこまりました。ちょうどこの間、エジプトから買い付けた珍しいのがありましてね。ナイル川のほとりに生えているハーブを大量に燻したウイスキーなんです。強烈ですよ」

「…ぜひお願いします」

 

 マスターは小ぶりなロックグラスに氷を3つ入れると、カウンターの下から紫色のボトルを取り出し、液体をグラスの三分の一ほど注いで、こちらに持ってきた。

「どうぞ」

「ありがとうございます」

 グラスを口元に近づけると、正露丸の匂いがした。一口含むと、やはり正露丸を水に溶かしたような匂いと、舌の痺れが広がった。男は目を少し閉じ、やや間を置いて、

「イケますね」と言った。

「そうでしょう」

 マスターは満足そうに戻っていった。

 

 男は、ふと、奥のカウンターに座っている客がこちらに視線を向けているのに気がついた。客は中年男性風で、サングラスをかけている。しかし口元は穏やかに笑っていて、じっとこちらを見ている。男は軽く会釈を返した。それを合図のように、客は

「ここは初めてですか?」と訊いてきた。

「はい、看板を見つけて、ちょっと気になって」

「そうですか。外、雪はどうでしたか」

「うーん。思っていたほど降ってはいなかったです」

「そうですか。まあでもね、ちょっとの雪でも電車とか、止まっちゃいますからね。通勤なんか大変ですね」

「ええ」

 

 少し会話が途切れたので、今度は男の方から話を振った。

「お仕事は、毎日通勤ですか」

「…ええ、まあ」客の口元からわずかに笑みが消えた。

「そうですか。僕もなんです。ちなみに、どういった職種ですか」

「…まあその、今はフリーで、コンサル業なんかをやっています」

 男は、少しわるく思った。およそコンサルティング業など、この世で最も実体のない、最もフィクショナルな業種である。それをフリーランスで名乗るなど、基本的にロクな仕事ではない。収入はゼロに近いかも知れない。それを告白させてしまったことをわるく思ったのだ。

 しかし、男の中に、ほんの少しだけ優越感が灯ったのも事実だ。自分は毎日、我慢してまともに会社で働いているのだから。男は出来心でまた訊いた。

「ははあ、コンサルですか。どんな案件をやったりしていますか」

 すると、客の口元にまた笑みが戻った。

「うーん、色々やってきましたねえ。例えば、クラゲアイスなんか、俺がやりましたねえ」

「クラゲアイス?」

「ええ。ひと昔前にね、北陸の方で、エチゼンクラゲが海岸に大量発生しましてね。地元の漁業関係者をほとほと困らせたんですよ。それを聞いてね、俺はビッグチャンスだと思いましてね。現地の漁協に行って、飛び込みで案を出したんですよ。クラゲを片っ端から捕まえて、冷凍して粉砕して、アイスクリームにして売りましょうってね。どうしてアイスクリームかわかりますか」

「いえ」

「アイスクリームは子供が好きでしょう。だからアイスクリームにしちゃって、給食で配るんですよ。給食は地域ごとにまとまって作るものだから、採用されればドカンと売れるんですよ。これが大当たりしましてね。地元の新聞にも載ったりなんかして、ありゃ良い仕事しましたね」

 男は、俄にこの客に興味が湧いてきた。

「へえ。それ、僕も食べてみたいなあ。今も売ってるんですか?」

「今は作ってないですよ。獲りすぎてクラゲが居なくなっちゃいましたからね」

 もっとこの客の話が聞きたくなった。

「そうでしたか。最近だと、どんな案件をやっていますか」

「それがね。実は今日そのことで、弟に相談に来てるんです」

 弟というのは、どうやらマスターのことらしかった。

「…でも兄さん、今回のは、さすがにダメと思うよ。店側が納得しないもん」弟が言った。

「そこを何とか考えようって言ってるんじゃないか」

「あの、今回の、というのは?」

 男が訊くと、兄はまたどこか嬉しそうに話し始めた。

「最近、コロニウイルスが流行ってるでしょう。コロニのせいでみんな遠出しにくくなっている。ところで、人が遠出したがる目的は何だと思いますか」

「それは…その場所にしかない雰囲気だったりとか、非日常感とかを体感したくて…」

「ダメダメ。お客さん、もっと具体的に。物事ってのはね、もっと具体的に考えないとダメなんです。人が遠くに出かける目的はね、ずばり、メシ。メシですよ。遠くにある、自分がまだ食べたことのないものを食べてみたい。人が遠くへ行くのはこれなんです」

「ははあ」

「それでね、俺、こんなものを作ったんです」

 そういうと兄は、机に置いてあったサイドポーチの中から、まず黒い二枚の絆創膏のようなものを取り出した。そしてそれを自分の両顎の下に貼り付けた。次にまたサイドポーチの中から、輪っかになった紐状のものを取り出した。紐には白いピンポン玉くらいの大きさの球体が一つだけ繋がれている。一目見たところ、猿ぐつわのようだ。あるいは、巨人が身に着ける真珠のネックレスのようでもある。兄はこの紐を男に渡し、

「この猿ぐつわを口にはめて下さい」と言った。男は受け取り、言われた通りに口にはめた。

「口のボールの横に小さいボタンがありますから、それを長押しして下さい」と兄が言った。

 男がボタンを長押しすると、ピピっと音が鳴って、口のボールがベージュ色に発光した。兄はそれを確認すると、

「それじゃ、俺が今から何かを食べますから、その味があなたの口の中にもいきます。ほら、最近、ワイヤレスイヤホンってあるでしょう。あれと同じ理屈で、俺の口の中の味覚を、Bluetoothであなたの口の中に飛ばすんです。感じてみて下さい。じゃあ、ヒロシ、いつもの作ってくれ」

「ローストビーフ丼ね。はいよ」弟は待ち構えたようにローストビーフ丼を作り始めた。

 どうやら兄は、ローストビーフ丼などという品性のかけらもない料理を好むらしい。しかしそれで良いのだ。ローストビーフ丼を食べるような人間がもつ、底知れぬ爆発力のようなものがこの世には存在するのだ。

 やがてローストビーフ丼が兄の前に出された。男は口に猿ぐつわをはめたまま、ずっとそれを見ていた。

「じゃ、食べます」

 そう言うと兄はスプーンでローストビーフと白米を口に運んだ。その瞬間、男の舌の上に異物感と強い匂いが広がった。すぐにそれらは輪郭をもった。冷たい肉汁、やや甘すぎるオニオンソース、そして白米の食感と匂いを、男ははっきりと認識した。現実には口の中には何も入っていない。しかし、口の中には確かにそれらがあった。さらに不思議なことに、兄の顎の咀嚼運動と全く同じ動きが、男の意思とは無関係に男の顎にも現れた。

 兄は次々に丼の中身を口に運んだ。男はそのペースについて行けず、ゲホゲホとむせた。たまらず、両手で顔の前にバツを作って兄に意思表示をした。

「ボールの横のボタンをもう一度だけ押してください。長押しじゃなくて短く押して。それが一時停止になります」

 男はあわててボタンを押すと、食感も匂いもふっと消え、ただ匂いの余韻だけが微かに鼻腔に残った。男は猿ぐつわを外し、口に溜まった唾液を飲み込み、しばらく呆然としていた。

 衝撃的な体験だった。技術の新しさ以上に、自分の中の価値観のようなものが、何か大きく変わったような気がした。

 兄は呑気に話し始めた。

「この装置があれば、お店で食べた味を、離れた場所にいる人にもそのまま味わわせてあげることができる。これ、今のご時世に良いでしょう?」

「でも、兄さん。こんなもの作ったら、店側からしたら、ますますお客が来てくれなくなるじゃないか。第一、お店の味を外に配信するなんて、法律的には店側の許可がないとやっちゃいけないはずだよ。そんな許可する店なんてあるかよ」

「だから、そこを何とか考えようって言ってるんじゃないか」

「…いや、僕は、これは、確実に広がると思います」ふと男が口を開いた。

「この装置は、バーチャル技術でしょう。バーチャルってのは、要はニセモノの体験ってことです。しかしこれは実によく出来たニセモノだ。よく出来たニセモノほど、かえってホンモノの価値を高めます。ニセモノとホンモノの間の微妙な差に、人は思い焦がれるんですよ。この装置でお店の味を体験した人は必ず、実際にお店に行ってみたくなるはずです。だからこそ、このバーチャルの価値は、リアルなものなんです。協力してくれるお店を、これからどんどん探しましょう」

 男の言ったことを、弟はよく理解できなかったのか、しばらく戸惑った表情を浮かべた。しかしすぐに兄の方を向いて、

「良かったね、兄さん。協力してくれるってさ」と言った。弟は、自分の主義主張よりも兄の方が大事だった。

 

 その後、男はしばらく兄と話し込んでから、兄の連絡先を聞いて店を去ろうとした。兄は、自分は二か月前から電話代を払っていないから電話が止められている、用があったらこの店に来てくれ、大体毎日ここにいるから、と言った。男は代わりに店の電話番号を聞き、飲み代を払って店を出た。久々に男の気分は高揚していた。

 

 雪は明らかに強くなっていた。一歩一歩、イメージを踏みしめるように歩いた。坂を上って、地下鉄の六本木一丁目まで。

 

《おわり》