『神様』

 16時57分。改札前にあるモニュメントのそばに立ち、ケイスケは携帯の通知画面に何度も目をやった。もうすぐサトミと待ち合わせの17時。空はよく晴れている。秋が近づいているがまだ長袖は要らない。もしかしたら夜は冷えるかもしれないが、下手に長袖を来て汗をかくよりはマシだ。そう思っていると、通知画面にサトミから「いま改札出るよ!」とメッセージが入った。ちょうど電車が着いたところなのか、改札から沢山の人が溢れ出した。やがてその中に、若い一人の女性がこちらを見ながら近づいてくるのが見えた。あれがサトミだろうか。あんな顔だっただろうか。屈託のない笑顔でどんどん近づいてくる。ああ、サトミだ。確かにああいう顔だった。

 

 二週間前、ケイスケは通っているピアノスタジオの発表会に出ていた。下は幼稚園生の小さい子から上は音大生まで、20人程度の生徒が通う小さな教室である。上京して都内の普通の四大に進学後、それまで続けていたピアノを細々とでも続けたいと思ったケイスケは下宿先のアパートの近くにそのスタジオを見つけた。あくまでもケイスケが欲しかったのはピアノの練習環境だけで、もう先生についてレッスンを受ける気などはなかったので、週に2回程度お金を払ってピアノを借り、一人で気ままに弾いていたのだった。

 もちろん、ケイスケの大学にもクラシック音楽同好会のようなサークルは幾つかあったし、そこに入れば学内のピアノを無料で使うことができた。しかしケイスケはそれに入らなかった。わざわざ大学でまでそういうサークルに入る学生はきっとケイスケより桁外れにピアノの上手い自信満々な奴らが多いのだろうし、何よりケイスケは自分と同年代の不特定多数の集団に溶け込める自信がなかった。もちろん、実際に喋ってみるとみんな良い奴なのだろうというのは薄々分かっている。自分から積極的に場に馴染もうとすればきっと友達はできるだろう。運が良ければ彼女だってできるかもしれない。でもやっぱり「不特定多数の集団」がケイスケには怖かった。語学の授業で隣の席の学生と退屈な日常会話の練習をさせられるとき以外、ケイスケは大学で声を発することはなかった。高校生まではそれほど孤独なタイプでもなかったのに、なぜ突然そうなったのか自分でも不思議だった。

 アパートに帰るとまず窓を開け、部屋の空気を入れ替える。簡単に掃除を済ませたあとシャワーを浴び、夕飯を作る。誰に言われたわけでもないのにケイスケはこの順番を欠かさず守った。夕飯は日替わりで鶏肉か豚肉を使い、これに適当な野菜を入れ適当な調味料で炒めたものを用意する。それをつまみつつ、近所で借りてきたレンタルDVDを観ながら時間をかけて缶ビールをちびちびと飲むのである。缶チューハイの類は翌日まで身体にアルコールが残ることがあるので決して飲まない。350ml缶のビールを大体3本、調子の良い日は5本程度飲めば心地よい酩酊が訪れる。そのためにはビールの銘柄も浮気せず毎日同じものを飲む。そして、飲んでいて少しでも眠気を感じたら酩酊の快楽をそれ以上引き伸ばそうとせず潔く眠る。これが毎晩安定してアルコールを楽しむためにケイスケが確立した飲酒の作法である。そうして朝は一定の時間に起きてまたシャワーを浴び、茹でたうどんを食べてから大学へ行く。出席すべき講義とサボっても構わなさそうな講義を冷徹に見極め、前者には必ず出席し、後者は必ずサボり、スナイパーのように粛々と単位を取り続けた。

 ケイスケの暮らしはあまりに規則的であり、あまりに孤独であった。規則的だから孤独なのか、もともと孤独だから規則的にならざるを得なかったのかはわからない。孤独を寂しいと思ったことはなかったが、うまく言葉にできない漠然とした不安が常に胸の中にあった。自分はこのまま大人になっていくのだろうか。これでいいのだろうか。自分は何をやりたいのだろうか。不安を抱えながらも、その不安をうまく誤魔化すための中途半端な器用さを持ってしまっているために余計に自分は良からぬ状態へ向かっている気がした。自分は客観的には決して引きこもりというわけではないが、もしかしたら引きこもり以上にタチの悪い人生を送るのかも知れない。この規則的な暮らしこそ、もしかしたら自分のどん底なのかも知れない。あるいはどん底ですらなく、どん底の一歩手前でいつまでも停止し続けている、長期的に見れば最も危険な状態なのかも知れなかった。

 そうしてやりたいことも見つからないまま大学の卒業も近づいてきたある日、通っているピアノスタジオを主宰する先生から、今度の発表会に出てくれないかと言われた。決して規模の大きい発表会ではないものの、少しでも盛り上げるために出演する生徒を増やしたかったのだろう。発表会で自分の出番を待つ間のあの重苦しい緊張は何度も味わったことがあったから気が引けた。それでも、数合わせとはいえこんな自分が誰かに頼ってもらえたことが少し嬉しかったし、練習も自分のペースでやれば良いので、あっさり出ることにした。

 発表会は区民ホールの一室を借り切って行われた。ホールというよりは大きな会議室のようなスペースで、椅子が100席ほど並び、正面にピアノが置かれていた。ケイスケはスタジオの生徒の中でもかなり年長の部類だったので、当日に見たプログラム表では出番は最後から四番目ということになっていた。弾くのはシューベルトピアノソナタ十九番とリストの『愛の夢』の二曲だ。出番を待っている間、極度の緊張がケイスケを襲った。知っている感覚だ。今まで何百回も弾いてきた曲のはずなのに、冒頭から全てをド忘れして全員の前で大恥をかく被害妄想が頭をよぎる。中学生の時も高校生の時も、発表会の前では必ずこの被害妄想に苛まれた。苦しくて、どうして自分はこんなに辛い思いをしなきゃいけないのかと思った。その度に自分をピアノ教室なんかに通わせた親を恨んだ。自分からピアノを習いたいと言ったことなんか一度もない。所詮、子どもに習い事をさせるという親の自己満足に自分は付き合わされてきただけである。しかし今回は、自分の意思で出演を断ろうと思えば断れた機会だ。なぜまた苦しい道に来てしまったのか。自分というものがないのか。そんなことを堂々巡りで考えていたら、名前が呼ばれた。出番が来た。ゆっくりとピアノの前まで歩き、客席に向かって一礼する。ピアノの前に座り、鍵盤に手を置く。最初の二小節を弾く瞬間、全てがスローモーションに見えた。この感覚も知っていた。緊張と集中が最高潮に達すると、世界は映画のコマ送りのように見える。指は確かに動いていた。よかった、ド忘れはしていなかった。急に安心して身体の力が抜けてくる。そしてその後弾き続けている間の記憶はほとんどない。あっという間に、気づけば『愛の夢』の最後の音を弾いていた。

 ケイスケの後の生徒たちの演奏、そして最後の大トリで先生の演奏が終わると、先生の謝辞のスピーチがあってから発表会はお開きとなった。ぞろぞろと会議用の長机がいくつも出され、紙コップのジュースやお菓子類が並べられて、その場で打ち上げが始まった。出演した生徒の数自体はそれほど多くはないが、呼ばれて聴きに来た各々の知り合いや生徒の家族などでそれなりに人の数は多かった。当然、ケイスケはこのスタジオですら他人との接点がほとんどなかったので、誰と話すでもなく紙コップのウーロン茶を持ちながら所在なさげに立っていた。ケイスケの直後に演奏した、音大在学中の男子学生とその友人達らしい何人かの会話が聞こえてきた。あそこが良かったとかダメだったとか、ケイスケにもわからない難しい用語を交えながらピアノの話で盛り上がっている。つくづく世界が違うな、とケイスケは思った。彼らは明るく意欲的にピアノに取り組んでいる。しかしケイスケは違う。ケイスケが今も細々とピアノを弾くのは、一言でいえば単なる自己の確認作業である。一度自分が身につけたことが自分の身体から抜けていくのが単に嫌で、あるいは今まで弾いていた習慣がバッサリなくなってしまうのが単に気持ち悪かっただけである。つまり自分が何らかの意味で変わっていってしまうのが怖くて弾いてきただけなのだ。だから、もっと上手くなりたいとも思わないし、今更新しい曲を覚えようとも思わない。一度作り方を覚えた同じ料理を何度も作って食べ続けているのと同じだ。普通はその料理に飽きが来て作るのをやめてしまうか、もしくは他の料理も作れるようになろうとして色々とチャレンジをするだろう。しかし自分はなぜか同じことを同じパターンでずっと繰り返して満足してしまうのだ。やっぱり、自分はどこかおかしいのだ。

 少し沈みかけた気持ちをかき消すかのようにケイスケはお茶を一気に飲み干すと、先生に一言挨拶を済ませて会場のドアを出た。その時、

「あの」

と後ろから声をかけられるのが聞こえた。

「リスト、好きなんですか?」

 振り返ると、若い一人の女性がにこやかに笑いながら立っていた。ケイスケが返事をするよりも前に驚いたのは、女性が髪の毛を明るい紫色に染めていたからである。どこかの山奥で発掘される珍しい鉱石のような色であった。瞳の色はグレーで、おそらくこれも何かを入れているのだろう。耳には穴が幾つも開いており、目視できるだけで3つもピアスを着けている。そして黒いワンピース。なるべく冷静に対応しようとケイスケは自分に言い聞かせた。

「あ、いや、特別好きというわけじゃないんですけど。昔習っていた先生に薦められただけです」

「そうなんですね。めっちゃ弾き込んでるなーと思って」

 弾き込んでいる。そうなのだ。弾き込んできたのだ。なぜなら曲のレパートリーが少ないからだ。才能があるわけでもなく物覚えも決して良くないケイスケは、数少ない曲を弾き込まざるを得なかったのである。その中でもこまごまと音数の多いリストの曲は、几帳面な性格のケイスケにうってつけだった。弾き込んでいるというのは褒め言葉でありながらケイスケの恥ずかしい部分を鋭く突いた。この人は一体誰なのだ。

「ありがとうございます。…えっと、ここの生徒さんですか?」

「自分は違うんですけど、大学の友達が出るんで、誘われて聴きに来たんです。最後の◯◯君です」

「ああ、そうなんですか。じゃあ、音大でピアノをやられてるんですか?」

「いや、私はトランペットやってます」

 彼女の派手な出立ちと、「音大でトランペットを専攻している」という情報があまりにも不思議な組み合わせだった。音大に入ってまで楽器をやるくらいだから、きっと小さい頃から真面目に楽器に打ち込んできたのだろうし、今もそうなのだろう。ケイスケとは「世界が違う」ほうの人だ。そんな人でも、こんなギラギラのファッションを好むことがあるのだということが意外だった。そのことでしばらくケイスケの頭はフリーズした。会話を繋げることができなかった。

「…ありがとうございました。」

 よりよって、ケイスケはそう小さく声を絞り出して会話を打ち切ってしまった。明らかにトランペットの部分を掘り下げて何か質問するべきだったが、頭がうまく回らなかった。普段から人と碌に会話をしていないからこんなことになるのだ。本当はもう少し話したかったのに、無理に言葉を繋げようとして自分のボロが出てしまうのも怖かった。何重もの意味で自分が情けなかった。

「LINE訊いてもいいですか?」

立ち去ろうとするケイスケの横顔に、サトミが言った。

「あ、はい」

慌ててケイスケは携帯を取り出した。しかしLINEのアプリを開くのもあまりに久しぶりだったので、友達登録の仕方が分からなかった。何もかも、サトミに助けてもらった。

 

 ちょうど電車が着いたところなのか、改札から沢山の人が溢れ出した。やがてその中に、若い一人の女性がこちらを見ながら近づいてくるのが見えた。あれがサトミだろうか。あんな顔だっただろうか。屈託のない笑顔でどんどん近づいてくる。ああ、サトミだ。確かにああいう顔だった。顔を認識するのに時間がかかったのは、二週間前の発表会で会ったあの日からサトミの髪の色が変わっていたからである。今度はエメラルドブルーになっていた。高校時代の地理の授業で資料集に載っていたオセアニア諸島の海の色を思い出した。改札の人の中で明らかに目立っていた。

「お待たせ。行こ」

 二週間前から、サトミとメッセージのやり取りをするようになった。同年代の若い女性とのメッセージのやり取りはケイスケにとって常に緊張感があった。サトミからのメッセージをこちらが読むと「既読」のマークが表示されるから、なるべく間隔を空けずに返信するには長文を推敲している時間はなく、それでいて気の利いた一文を毎回考えて送り返すのはケイスケにとって大きな集中力を要した。しかし、おかげでサトミについて幾つか知ることができた。中学までピアノをやっていたが高校で吹奏楽部に入ったのを機にトランペットを始めたこと、音大で専攻しているのはクラシックではなくジャズであること、歳はケイスケより一つ下であること、意外にも運送のアルバイトをしていること、等々。そして、話の流れで飲みに行くことになった。二週間ぶりに会ったサトミは、前と同じようにニコニコと笑っていた。

「久しぶり。髪の色、変わったんだね」

 ケイスケはつとめて冷静に言った。

「そう、飽きたから変えたの。もう髪パッサパサ」

 そう言えばケイスケが小さい頃、高校生だったケイスケの兄が髪をうっすらと茶色く染め、それを母親に見破られて勘当寸前の勢いで激怒されているのを見たことがあった。髪をうすく染めただけでうちの家ではここまで言われるのかと子供心にケイスケは不条理に感じたが、そうした不条理に巻き込まれず穏便に生きられるなら自分は髪など一生染めなくて良いやと思った。そうやって、自分の同年代の間で流行っているもの一切に興味を示そうとしないケイスケの性根が少しずつ作られていった。そんな自分が今、エメラルドブルーの髪の女の子と一緒に歩いているのがとても不思議だった。

「海の色みたいだね。…じゃ、行こうか」

 ネットで見つけた、安すぎず高すぎず、やや個性的なメニューがあり、それでいて客席も比較的広そうな焼鳥屋に行くことになっていた。自分の行きつけかのごとくサトミにはさり気なく教えたものの、事前にケイスケが血眼になって周到にリサーチした店であった。その時、

「あ、タピオカ屋ある!飲んで行こうよ」

とサトミが言った。言われるがまま、屋台でタピオカを買って飲んだ。ケイスケは人生でタピオカを飲みたいと思ったことなど一度もなかった。ミルクティーを原価の安い固形の澱粉でかさ増ししただけの浅ましい飲み物だと認識していた。しかし、サトミが飲みたいと言ったから一緒に飲んだ。ケイスケはまだ少し緊張していたから味はよくわからなかったが、サトミはずっとニコニコ笑っていた。

 その後あらためて焼鳥屋へ行き、たらふく食べて飲んだ。サトミはビールやカクテルや焼酎など色んなお酒を飲み、ケイスケはひたすらビールを飲み続けた。途中、

「タバコ吸っていい?」とサトミが訊いた。

「どうぞどうぞ、遠慮しないで」

 気を遣ったのではなく、心からそう言った。サトミがタバコを吸うところを見てみたかった。サトミはハイライトを一本取り出して火をつけると美味しそうにプカプカと吸い始めた。それが、女性が吸うにしてはかなり重たい銘柄のタバコであることを、ケイスケは帰ってすぐに検索して知った。パッケージの色とサトミの髪の色が同じなのが面白かった。

 サトミとはずっと音楽の話をした。ケイスケが事前に調べておいたところ、ジャズでトランペットといえばマイルス・デイヴィスという偉人がいるようだから、ケイスケはマイルスについてありったけのことを調べてサトミと話ができるようにしておいた。しかしケイスケがマイルスの名前を出すと、サトミは「私マイルスあんまり好きじゃない」とあっさり言ったので面食らった。でもその分、サトミは自分が好きな音楽の話を沢山してくれた。マイルスのように静かに作り込まれた音より、もっと明るくて伸び伸び吹くプレイヤーが好みらしかった。ケイスケはサトミの話を興味津々で聞いた。そういえばケイスケはトランペットという楽器の仕組みについて何も知らなかったから、そもそもどうやって音を出すのかなど、色んなことを手当たり次第に訊いた。思い浮かんだことを素直に訊く方がよほど会話が盛り上がった。

 サトミの部屋は汚かった。本やら服やら色々なものが床に散乱していた。しかし不思議と水回りだけは綺麗で、女性の家はこういうものなのかと思った。そしてサトミのこだわりなのか、ベッドのシーツは赤で統一されていた。

 それからサトミの音大でのライブを何度か聴きに行くようになった。サトミが話していた通り、サトミのグループは明るくてノリの良い曲をやることが多かった。リー・モーガンの『ドミンゴ』をやった時のサトミのアドリブソロは特に明るくてカッコよかった。いつの間にか、ケイスケはピアノスタジオに通うのをやめた。なんとなく心が軽くなった。

 

「お茶買ってきて、2リットルのやつでお願い」

 サトミからメッセージが入った。お茶と、40形の電球を買ってサトミの部屋へ向かった。部屋の玄関の電気がずっと切れたままになっていたからだ。こういう生活の小さな不便にサトミは鈍感だった。こういうことは気づき次第即座に直すことが生活を快適にするコツである。しかし、ケイスケがサトミにしてあげられるのはそれらをこまごまと直してあげることくらいだった。

 そう言えばサトミはマイルスが嫌いだと言っていたが、どうしてあの日リストを弾いたケイスケに声をかけてきたのか、そのことをケイスケは今も訊けずにいた。

 

 

 

《おわり》

『配給』

 

「それで監督、次回作の案なんですが」

「うむ。何か考えてきてくれたかね、田中くん」

「はい。ズバリ、女性美容師の世界を描くというのはどうでしょう」

「女性美容師か。詳しく聞かせてくれ」

「はい。主人公は若手女性美容師のA子。この世の誰よりもお客さんの髪をクールに切ってみせるカリスマ美容師を夢見る新人です。A子が勤める店は、銀座とか表参道あたりでどうでしょう。一等地の店に勤めていることからして、A子が非凡な才能の持ち主であることが観客にも伝わるわけです。そこでA子は初めてお客さんを担当して髪を切っていくんですけど、次々にお客さんに酷評されてしまうんです。「あなたに頼んで失敗だった」とか言われちゃって、どんどん傷つくA子。しかしA子は自分を奮い立たせて、先輩の女性美容師からも積極的に技術を学んで腕を上げようとします。それでもなかなかA子にお客さんはつかない。もう自分には才能はないんだと失意の底に落ち込んだA子は、地元の田舎に帰ります。しかしここでA子は、自分が小さい頃通っていた美容院の美容師B子さんに偶然再会し、久しぶりにB子さんに髪を切ってもらいます。そこで本当に素敵な髪型に仕上げてもらい、A子は感激します。ここで大切なのは、髪を切る技術だけじゃなくて、常にお客さんとコミュニケーションを取りながらお客さんに似合う髪型を一緒に探していく、そういう心の触れ合いのようなものが大事なんだとA子はB子さんに教わるわけです。自分は今まで技術のことしか考えていなかったけれど、心の触れ合いも大事なんだと。B子さんにパワーをもらったA子は、再び東京に戻って頑張ります。すると、今まで冷たい反応しかくれなかったお客さんが、少しずつA子の仕事ぶりを褒めてくれるようになる。数年後、そこには店の看板美容師として後輩を指導するたくましいA子の姿があったーーー。このA子の挫折と成長の物語を描きたいんです」

「…………」

「どうでしょうか、監督」

「いや、良いと思うんだけどね。田中くん、この話の見せ場はどこかね」

「見せ場、ですか」

「そう。例えば『タイタニック』なら、最後にディカプリオが海の底に消えていく印象的なシーンがあるだろう。『ボヘミアン・ラプソディ』なら、最後にライブ会場で全員が熱唱する感動的なシーンがあるだろう。この話の、そういう見せ場はどこなのかね」

「えっと。さっきも言った通り、この話は、A子の挫折と成長の物語なんです。だから、一つ一つのシーンを丁寧に描いていけば挫折と成長はしみじみと伝わると思いますし、あえて見せ場のようなものは作らなくてもいいんじゃないかと思うんです」

「田中くん。僕もね、その挫折と成長を描きたいってのは良いと思う。でもね、もう少しサービス精神を身につけた方が良いと思うんだよ」

「サービス精神、ですか」

「そう。お客はせっかく映画館に映画を観に来るんだから、胸にグッと刺さるシーンが欲しいじゃないか。感動したいじゃないか。僕らはちゃんとそういうものを観せてあげなきゃいけないんだ」

「でも監督、はっきり感動させるだけが映画じゃないと思うんです。色んな形があっていいと思うんです」

「田中くん。君はこの業界に入ってまだ日が浅いからわからないかも知れないけどね。映画の世界で食っていくために一番大事なものは何だと思う?」

「……一番大事なもの、ですか」

「そう。それはね、とにかく自分の名前で信用を得ることなんだ。信用とは何か、わかるかね」

「……わかりません」

「決まってるじゃないか。当たる映画を撮ることだよ。当たる映画を撮れない奴に仕事が来るわけ無いだろう」

「……」

「当たる映画は撮れないけれど常に一部のファンからの評価は高い、なんてのは何の信用にもならないんだよ。君が自由に撮りたい映画があるんなら、いずれ君がエラくなってから君の自腹で好きなだけ撮ればいい。でも、職業監督であるうちはそんな甘えたことはできないんだ。僕らが作るのは一つの工業製品なんだからね」

「……わかりました」

「よし。それじゃあ、とりあえずこの話の見せ場を考えよう。感動のさせ方には色々な手法があるけれど、やはりお客をしっかり泣かせるのが最も基本的なテクニックだ。田中くん、まずは一般論として、確実にお客を泣かせたいと思ったらどんなシチュエーションを観せればいいかね」

「……シチュエーション、ですか…」

「勉強不足だなあ。いいかい、"愛する人との離別"、"ペットの死"、"一生懸命なガキの姿"、これが泣きの3点セットだ。よく覚えておきなさい」

「…わかりました」

「この中でも、使用法はそれぞれ微妙に異なる。例えば"ペットの死"は、絶対にそのペットにお客の思い入れを集中させないといけないから、どうしても動物映画としての側面が必要になる。"一生懸命なガキの姿"は、それと対になるものとして"情けない大人"を登場させないといけないから、これもストーリーに少し制約が加わる。そうなると、やはり一番使い勝手が良いのは"愛する人との離別"だ。"愛する人"は、恋人でも家族でも幼馴染でも誰でも構わない。"離別"のパターンも選び放題だ。相手が不治の病でじわじわ死んでいくのでも良いし、何かの事故で突然死なせても良い。あるいは相手の不倫なんかの裏切り行為による決別でも良いし、ある日突然置き手紙を残しての失踪のような寂しいテイストでも良いだろう。それに、死にさえしなければ最後に感動の再会に持ち込んでお客を追加で泣かせることも可能だ。まさに煮て良し・焼いて良し・生で良しの万能食材なんだ」

「…なるほど」

「それじゃ、田中くん。最初に戻って、この話で君はどう泣かせるかね」

「そうですねえ…。美容院が舞台ですから動物は出しにくいし、一生懸命なガキもどこに出せばいいのかわかりません。そうなるとやはり"愛する人との離別"でしょうか」

「うんうん。その調子だ」

「しかし、誰と離別させれば良いんでしょう。恋人も家族も幼馴染も出てこないし…追加で出した方が良いんでしょうか」

「さっきも言っただろう。別に誰だって良いんだ。例えば、君はこの話の中でキーパーソンは誰だと思う?」

「うーん、やはりB子さんでしょうか。A子に成長のきっかけを与えたわけですから」

「なら、B子さんとA子を離別させりゃあ良いじゃないか」

「離別って言ったって、B子さんはA子の恩人ですから、離別も何も…」

「田中くん、ここでテクニックが必要なんだよ。B子さんは、A子が小さい頃に通っていた美容院の美容師なんだろう?」

「はい…」

「ということは、美容師としてはかなりのベテラン、なんなら今は70そこらのおばあちゃんという設定でも問題ないわけだ」

「…なるほど!B子さんを病気で死なせれば良いんだ!」

「そうだ。あとは君の好きな病気をトッピングすれば良いんだ」

「そして亡きB子さんとの思い出を繰り返しリフレインするシーンを挟めば、何度も効果的に泣かせることができるわけですね。…こういう風に使うのかあ。だんだんわかってきました。もう少し登場人物を増やしてバリエーションを工夫すれば、さらに見せ場を作れそうです」

「まあ、色々試してみなさい。ただしテクニックはあまり乱用してはいけないよ。一本の映画で3回も4回も泣く体力はお客には無いからね。常にお客の気持ちに寄り添うんだ」

「わかりました。とりあえず、帰ってすぐに書き直してみます」

「よろしく頼むよ」

 

 

 

《おわり》

『おわり、はじまり』

 

 飛行機が徐々に高度を下げ、やがてタイヤが滑走路に触れると、機内はガタガタと揺れた。地上を走る轟音を数秒鳴り響かせたあと、飛行機はゆったりとした速度で所定の搭乗口へと向かい、ほどなくして完全に静止した。ポーン、と機内で合図の音がして、乗客たちはシートベルトを外し、座席の頭上のトランクからそれぞれの手荷物を取り出し始めた。

 

 土日を丸々使って、私は2年ぶりに帰省した。これほど間が空いたのは初めてかも知れない。奇妙な感染症が流行り出してしばらく帰れなかった、というのも確かに理由の一つだが、もしそれがなくても、「忙しい」とかなんとか理由をつけてしばらく帰っていなかっただろう。別に両親と仲が悪いわけではない。ただなんとなく、都会で一人ブラブラと暮らす気楽さに心も体も完全に慣れきってしまっていたから、生真面目な生活リズムを強いられる実家に帰るのは、言ってみれば一つの禅修行のようなものだった。

 到着ロビーで荷物を全て受け取って、ゲートの方へ向かった。ゲートの上の方には「めんそーれ」と書かれたいつもの看板があった。きっと観光客はこの看板を見て、これから始まる旅の高揚に心を踊らせるのだろう。とんでもない。私はこれから禅修行なのだ。

 

 ゲートの向こうに、両親の顔が見えた。2年ぶりに会う父の顔はそれほど変わっておらず、白髪が多少増えた程度だったが、母の顔は明確に老いを見せていた。2人ともまだ現役で働いているとはいえ、もう70を過ぎた高齢者だから仕方のないことだ。でもやはり、思った以上に長い年月が私たちの間に過ぎてきたことを実感して、胸の奥に何かがチクリと刺さった気がした。もしかしたら自分はこういう気分になることを敬遠して、無意識に帰省を避けてきたのかも知れなかった。

 

「ちょっと痩せたね?どうね、飛行機は混んでたね?」母の甲高い声だけは、以前と全く変わらなかった。

「いや、全然。ガラガラだった」

「飛行機、ちょっと遅れたか。20分くらいか。」父は、久々に会った息子とぎこちなくコミュニケーションを取ろうとして、尋ねるでもなく小さな声でつぶやいた。

「…うん。機体の整備がどうこう言ってた。」

 私はなんだか照れ臭くて、二人に訊かれたことにだけボソボソと返事をした。

 建物を出て立体駐車場へ続く渡り廊下を歩くと、3月の那覇の湿った風が頬に吹きつけた。

 

 父親の車のトランクに荷物を詰め込んだ。いつからか、父親の車はプリウスに変わっていた。“高齢者の運転するプリウス”は、世相もあってか、時にそれだけで悪評の対象になる。しかし私の地元のように公共交通機関が発達しておらず、高齢者にとっても自家用車は絶対に無くてはならない必需品で、その中でも燃費をできれば節約したいとなると、この車種を購入するのはしばしば最も有力な選択になるのだ。

 後部座席に乗り込むと、チャイルドシートが取り付けてあった。姉夫婦が帰省したときのために、一人息子のY君用に両親が用意したものだった。

「Y君、元気?」私は初めて自分から両親に質問した。

「ああ、もう。この間帰って来た時、こーんなに大きくなって。もう5歳よ。またさ、お姉ちゃんがY君にべったりなわけさ。毎日写真が送られてくるよ。ほら」

 そう言うと母は私にスマホを渡し、家族間の共有アプリに収められた何枚ものY君の写真を見せてきた。誕生日ケーキの前で笑うY君、電車の車掌さんの帽子を被って指差し進行のポーズを見せるY君、美容院で髪を切ってもらっているY君、あるいはその隣で穏やかに笑う姉と義理の兄。あまりにも写真の数が多かったので、途中で見飽きて母にスマホを返した。

 仕事もプライベートも完璧にこなす、私から見れば超人同然の姉と義理の兄に育てられて、Y君は一体どのような人生を送るのだろうか。確実に立派な子に育つに違いないと思いながら、少しだけざわつく気持ちもあった。沢山の愛情を注がれ、その恩恵を目一杯生かして幸せに生きる人間の方が多いはずだが、愛情をうまく消化できずに静かに腐っていく人間もいる。

 

 相変わらず渋滞気味な那覇の幹線道路を抜けて、隣の市の実家までようやくたどり着いた。私が18まで暮らしたこの家は、私が生まれた頃とほぼ同時期に建てられたものだから、もう築30年を超え、あちこちに少しずつガタが来始めている。しかし久しぶりに帰ってみると、家の中は思いのほか整然としていて、何箇所かはリフォームも施されていた。二人暮らしが長いと家の普請も丁寧にするようになるのか、それとも年に何度か帰ってくる孫たちのために少しでも良い居住スペースを提供しようと両親なりに頑張っているのか、どちらかは分からなかった。そう言えば私自身は、自分が一人の子の叔父である自覚など今もほとんど持っていなかった。私の周りだけが、何もかも少しずつ変わっていた。

 

 受験勉強とゲームと自慰行為の記憶がつまった自分の部屋で少しだけ眠ってから、リビングで三人で夕食を取った。雑穀米のご飯、ハンダマの葉と冬瓜を炊いた味噌汁、かぼちゃの煮物、昆布と人参の和え物、そしてサラダ。昔から筋金入りの、あるいはヒステリックなほどに健康マニアだった母が作る夕食はますます加速していた。当然、アルコールは一滴も出ない。正確に言うと、父はそれが夫婦喧嘩の種になるほどの大酒飲みだったのだが、数年前に癌が見つかってからはピタリと酒を止め、ノンアルコールビールのみに切り替えていた。幸い、早期の癌発見だったために手術でほぼ完治し、今では毎晩のウォーキングも欠かさない。父も父で根は恐ろしく真面目であるため、土砂降りの雨の夜に母が止めてもウォーキングに出かけるらしく、母も呆れていた。父は定年まで病院勤めの後、小さな保健所のような施設の管理職に就いて今は悠々暮らしているかと思いきや、件の感染症の流行で、その対策やワクチン業務に駆り出され、いまいちやる気のない職員たちを毎日叱咤しながら、それなりに忙しく働いているようだった。しかし、父のように仕事一本の人生で、プライベートでは全くと言っていいほど趣味を持たない人間には、その方が丁度良いのではないかと密かに思った。

 

 母の作った、見るからに健康そうな、そして味のしない料理を食べながら、自分の20代の頃の一人暮らしのことを思い出した。人より少し長く学生をしていたこともあり、家で酒を飲んで時間を埋めることを覚えた。社会人になってもそれは変わらなかった。酒を飲んで頭を痺れさせ、好きな音楽を聴いたり映画を観たりして、自分を遠い想像の世界へ持っていく気持ち良さのようなものを毎晩繰り返していた。それが、自分の勉強や仕事のストレスから逃れるためのものだったのかは、今も分からない。ストレスなど、自分と同年代の人間だっていくらでも抱えている。自分だけが特別に過酷な環境で過ごしていたとは思わない。ただ単純に、自分がそうして何かに耽りがちな性格だっただけかも知れない。さすがに今は酒も減った。それにしても、こんな家庭に生まれて、なぜ自分のような不道徳な人間が出来上がったのか、そのことだけが不思議で仕方なかった。

 

「明日、おばあちゃんのところ、昼過ぎに行くからね」食べながら母が言った。私が今回帰省した一番の目的だった。

「うん。おばあちゃん、最近どう?」

「一時期よりは良くなってるけど。少しずつ自分で歩いたりするようになって。でも全然ご飯食べないのよ」

 母方の祖母は90を過ぎ、明らかに体調が弱っていることは前々から両親に聞いていた。もしかしたら、といった話も聞いていた。しかし、時勢もあり、孫とはいえ東京から会いに帰ることは控えていた。ただ、家族全員ワクチン接種も済ませ、少しだけ感染の状況も落ち着いた今、手早く帰って会うことに決めた。祖母の顔を見る機会は、もうこの先数えるほどしかない。

「おばあちゃん、今も一人なの?」

「それがさ。もうホントに、何考えてるのかね、HとMさんは」

 Hは祖母のただ一人の息子、いわゆる末っ子長男で、私の叔父にあたる。Mさんは叔父の三人目の妻だ。叔父ももう還暦を過ぎたはずだが、数年前にMさんと再々婚をした。叔父は祖父母の経営していた会社を引き継ぎ、この狭い地元で何かと人付き合いが多く、ずっと独身のままでは座りが悪かったのかも知れないが、結局のところ結婚の理由など当事者にしか分かりはしない。今は二世帯住宅で、下の階に祖母、上の階に叔父夫婦が住んでいる。

 母が言うには、本来ならば叔父夫婦が祖母の世話をするか、または病院や施設に入所させるなどすべきであるが、そのどちらもいまいち行っておらず、祖母が体調を崩すたびに母が車で駆けつけて対応をしているという。

「この前、ちょっとだけ、電話でMさんとやり合ったのよ。Mさん、『私たちの夫婦の時間が奪われる』って言うけど、あなたたちが一番近くに住んでいて、色んなものも祖母から貰っているんだから、あなたたちでまず世話をするのが筋でしょう、って」

 どうやらMさんは、自分たちのプライベートと夫の母親の世話は全くの別物であるという、とても現代的な感覚の持ち主のようだった。私は、別にそれが間違っているとは思わない。結婚したからといって、相手の家のことも無条件で引き受けなければならないというのは酷だ。ただ、現実として祖母が弱っているのだから、ここをどうするかは家族の中で話し合ってお互いが少しずつ協力するしかない。しかし、お互いの人間性に一度でも苦手な感情が芽生えると、その話し合い自体がなかなか生まれないようだった。

 

 翌日、昼食を済ませてから、三人で祖母の家へ向かった。玄関を開けると、懐かしい匂いがした。私が初めて会う女性が出迎えてくれた。新しく来てくれているお手伝いさんで、Aさんというらしい。Aさんが炊事や洗濯や清掃をしてくれているおかげで、今の祖母の生活は保たれている。しかし当然ながら、祖母の介護まではAさんの業務ではない。夜になればAさんは家に帰り、AさんにはAさんの暮らしがある。

 

 祖母は、リビングのテーブルのいつもの席に座っていた。私たちがリビングに入るなり、祖母の顔は大きく綻んだ。

「まあ!まあ!…久しぶりねえ。…あらららら!」祖母は、私が思っていたよりも幾分元気そうで、よく笑ってくれた。

「どう、おばあちゃん、最近元気?」

「うん、もう、とーっても元気よ!」

 祖母はかつてバリバリ働いていた頃、英国のサッチャー元首相に憧れて、頭にモコモコのパーマをあてていた。その頭は、今は3分の1くらいにしぼんでいた。背丈も、私の記憶よりとても小さくなっていた。

 お茶を飲みながら、祖母といくつか言葉を交わした。会話が途切れても、母がどんどん話題を振ってくれるので困らなかった。父は、へへ、とかハハ、とか後方から相槌を打ち続けていた。

「それで、R君、あなたもう幾つになったの?」

「もう、32だよ」

「まあ、そうですか。お嫁さんは?」

「ハハ、いないよ」

「そう。もう立派な大人だから、あとは子どもが楽しみだねえ。」

 きっと私が女性だったら、祖母の無邪気な言葉は私をいたく傷つけていたかも知れない。でも、私はもう自分自身に何も期待していないし、祖母の世代には当たり前の価値観なのだろうから、ハハ、と笑って流した。それよりも、今こうして祖母と会話をしていることが大事だった。

 

「じゃあね、また来るよ、おばあちゃん」

 玄関で祖母に見送られながら靴を履いた。

「はい、またいらっしゃい。今度はいつ帰ってくるの?」

「また、すぐ来るよ」

「そうですか。東京は寒いでしょう。そういえば、R君、あなたもう幾つになったの?」

 今日で三度目だった。丁寧に答えた。

 

 空港まで両親に送ってもらい、手荷物検査場の前で礼を言って別れた。検査の列を過ぎて一瞬だけ振り返ると、まだ両親が立っていた。また手を振りながら、ふと、そう言えば、もうこの二人にも孫がいるんだと思い出した。

 

 搭乗口のロビーに座ってアナウンスを待った。ビールを一本買って飲んだ。いつか、私はちゃんと叔父さんをやらなきゃいけないと思った。

 

 

 

《おわり》

『真夏のはなし』

 

 あ、どうも、よろしくお願いします。とりあえず、質問されたことにどんどん答えていけば良いんですね。わかりました。僕、インタビューなんか受けるの生まれて初めてだから、緊張しちゃって。東京の生活史の聞き取り調査、でしたっけ?なんか、難しそうなことやってますね。僕、高校も途中で退学しちゃって、ほとんど中卒みたいなもんだから、難しそうなことはよくわからないんです。こうして大学のセンセーなんかに会うのも生まれて初めてだし。シャカイガク?へえ、そんなものがあるんですか。

 

 はい、名前は、石山健一といいます。年は、もうすぐ54になります。仕事は、建設業で働いています。今の会社?もう働いて8年くらいになりますね。ずっと現場のバイトだったんですけど、実は去年、社長が正社員にしてくれたんです。いや、ホント、ありがたい話です。僕、一つの職場がこんなに長く続いたのも初めてで、正社員になったのも初めてで。ホント、全部今の社長のおかげです。

 

 生まれも育ちも、ずっと東京です。はい、東京の江東区です。東京の東の端っこ。親父は定年まで工場勤めで、鋼板とか作ってたみたいです。うちの地域、そういうの多いんです。母親は専業主婦でした。当時からしたら本当に普通の家でした。めちゃくちゃ普通。なのになんで僕みたいなのが生まれちゃったのかな、みたいな。

 あ、いや、別に大した話じゃないんですけど。さっきもチラッと言ったんですけど、僕、高校も途中で辞めちゃったりしてて。別にいじめられたりとかじゃないんです。ただなんとなく、毎日ずっと学校に行って帰ってきての繰り返しみたいなのがしんどくなってきちゃって。勉強もあんまりできなかったし。それで、一度休む癖がついたらどんどん行かなくなって、高1の終わりくらいに学校を辞めました。

 それからですか?うーん、一年間くらい引きこもりでしたね。何して過ごしてたか?…あんまり思い出せないんですよね、その時期のこと。漫画読んだり、音楽聴いたり、あとはずっと布団で横になってたと思います。漫画?ちょうどカムイ外伝の二部が始まったくらいで、一番ハマりました。あと普通に北斗の拳とかも読んでましたね。ドラゴンボールも一応始まってたんですけど、僕は読んでないですね。最初はあんまり注目されてなかったんですよ、ドラゴンボールって。Dr.スランプの方が面白かった。

 で、そんな感じでダラダラ過ごしてたら、親父からそろそろ働いたらどうだって言われて。うちの親父、普段ずっと無口であんまり僕と会話もなかったんですけど、急に親父からそう言われたんで、結構びっくりしたというか。でもちょっと安心したりもしたかな。だから「うん」って言って。それで、親父の紹介で、近所の小さい電器屋で働き始めました。

 仕事の内容は、ほとんど力仕事でした。冷蔵庫とかエアコンとかが定期的にドサっと届くんで、それをトラックから下ろして倉庫に運んだり、お客さんのところに配達に行って取り付けしたり。発注とか営業とか、難しいことは僕はやりませんでした。っていうか、やらされても出来なかったと思います。力仕事の方が僕は向いてるから。

 それで、4年くらい働きましたね。仕事は特に問題なく出来てて、人間関係も全然悪くなかったんですけどね。うーん。なんていうか、こういうのが僕のホントにダメなところなんですけど、一つのことがずっと続かないんですよ、僕。何が嫌とかじゃなくて、とにかく長く続けられないんです。その日も、午前中仕事して、昼休みがあって、その後事務所に戻らなきゃいけなかったんですけど、昼飯食いながら、なんか自分の中でプツって切れた感じがして。そのまま着替えて、駅まで行って、電車に乗りました。別に行き先とか考えてなかったです。電車に乗った瞬間、ああ、俺またやっちゃった、また自分から大事な場所失っちゃったって思って落ち込んで。22になる年でした。真夏でした。確か7月か8月だったと思います。

 

 上野で降りました。どうして上野だったのか思い出せないんですけど、多分賑やかな場所に行って気を紛らわせたかったんだと思います。東京の下町に住む人間からしたら、一番馴染み深い大きな街は上野だったんです。アメ横の通りや路地を何時間もぐるぐる歩きました。真夏なのに、なぜか僕の身体はずっと冷たく感じました。ひたすら歩いて、気づいたら夜になっちゃってて。家に帰りたくありませんでした。

 ちょうどその時、小さい映画館を見つけました。少し前の名作とかをリバイバルで上映してる、単館系ってやつです。看板を見ると、その日は『レインマン』をやってました。ちょっと前にアカデミー賞を獲った映画だったから、僕も名前くらいは知ってました。自動車工場を経営する弟と、自閉症の兄のロードムービーです。夜間上映だったんで、これから上映する回を観ると終電が無くなるんですけど、僕はその方が都合が良かったから、切符を買って中に入りました。平日の夜だったからか、シアターに客は僕一人でした。

 またこの『レインマン』が、いい感じに僕に刺さる映画でね。弟をトム・クルーズが演じてるんですけど、こいつが本当にダメな奴なんです。行き当たりばったりで不真面目で、会社の経営はガタガタ。しょっちゅう債権者から電話がかかってきて、色んなことを先延ばしにして、もう首が回らないっていうか、閉塞感漂う奴なんです。なんか、思いっきり僕みたいな奴なんです。それを観て、ちょっと笑っちゃったっていうか、映画の中だけど僕みたいな奴が他にもいるんだと思って、少し救われたような気持ちになって。良い映画でした。

 映画が終わって、さあどうしようかって立ち上がると、僕の席の後ろの列に、もう一人お客さんがいたんです。ぱっと見で、僕と同じくらいの年の女の人でした。実は僕の2個上だったんですけど。途中から入ってきたのか、僕はずっと気づきませんでした。なんとなく同じタイミングでシアターを出て、僕がトイレに行こうと思ってトイレがどこかキョロキョロしてると、彼女も同じようにキョロキョロしてて、「お手洗い、あっちですかね?」って彼女が僕に話しかけてきました。彼女が指さす方向を見るとトイレの看板があったので、「ああ、あっちですね」って返しました。二人でトイレの方まで一緒に歩きました。十秒間くらいだったかな。こういうとき何か喋った方がいいのかなと思ってたら、「映画、どうでした?」って彼女の方から話しかけてくれました。面白かったです、僕はむしろ弟の方にシンパシーを…と言いかけた直前でトイレの前に着いちゃったので、僕は「あっ、あっ…」と情けない声を出しました。彼女は少し笑って、「じゃあ、後で」と言いました。

 僕の方が先にトイレを出て、必死に映画の感想を頭の中でまとめながら彼女を待ち構えました。しばらくして彼女が出てきました。僕は、

「や、この映画のテーマは言っちゃえば兄弟愛みたいなことだと思うんですけど、僕的には、障害を抱えながらも真っ直ぐに生きる兄と、狡くてちゃらんぽらんに生きている弟の姿のコントラストのような部分が良くて、しかもどっちかっていうと弟の方に自分を重ねてしまってグッときちゃいましたね」

 みたいなことを精一杯カッコつけて言いました。チラッと彼女の顔を見ると、彼女の表情は明らかに引きつっていました。僕はとっさに、

「すいませんでした」と言いました。彼女はますます困惑した表情で、

「…なんで謝るんですか?」と言いました。

「や、なんか、言い過ぎたかなって思って」

「…言い過ぎたってどういう意味ですか?なんか酷いこと言ったって意味ですか?」

「や、そうじゃなくて、あんまり求められてないのに元気よく喋りすぎたかもなって思って」

 僕はだんだん自分がとても惨めに思えてきました。早く帰りたい、このままだと僕も彼女も不幸になると思いました。その時、

「…せっかくなら、どこか入って話しませんか?始発までまだ時間ありますよね?」と彼女が言ってくれました。僕は泣きそうな声で、そうですね、そうしましょう、と答えました。

 

 しかし、その後隣の居酒屋に入って落ち着いて喋ってみると、彼女はとても面白くて明るい人でした。彼女はその時、女性週刊誌のライターの仕事をしていました。女性の関心がありそうな俳優や女優やタレントのところに取材に行って、タイムリーな話題の記事を書いて出稿するんだそうです。正社員ではなくその雑誌の記事作成を請け負うライターという形で、1年ごとの契約更新らしく、毎年結果を出しながらバリバリ働いていました。彼女は、本当はもう少しクリエイティブな仕事がしたいと言っていましたけど、僕から見たら彼女は十分に立派でした。

 

 そして僕の方も、もう彼女の前でカッコつけたって仕方がないと思って、自分のことを洗いざらい話しました。高校を辞めて引きこもりだったこと、何をやっても続かない性分のこと、まさに今日仕事を辞めたこと、無口な親父もさすがに今回ばかりは僕に激怒するかも知れず、怖くて家に帰れなくてあの映画館に入ったことなど、自分のダメな部分を、むしろ彼女に逆の意味で張り合うように、面白おかしく話しました。彼女は僕の話をずっとけらけら笑って聞いてくれました。僕はそれが嬉しくて、もっと笑って欲しくて、頭の中で必死に自分のダメな部分が他にないかずっと探していました。こんなことなら、もっと思いっきりダメな人生を送って来れば良かったとすら思いました。

 始発の電車が動き出して、そろそろお店も閉まる頃、彼女が「そんなに家に帰りたくないなら、この後うちに来る?」と言いました。その日、僕は初めて女性の家に泊まりました。

 

 その日から、僕たちは何度か会うようになりました。今まで読んできた漫画、観てきた映画、お互い最近興味があるものの話などを沢山しました。僕は好きになった作品を何度も何度もリピートするタイプですが、彼女は手広く色んなジャンルのものを好むようでした。また、彼女は仕事柄、色んなところに取材に行くので、この世の中の仕組みについても沢山知っていました。僕は彼女と話をするのが毎回楽しみな反面、彼女とは逆に何もない空っぽな自分を思い知らされる感じがして、少し落ち込んだりもしました。僕はそのことも彼女に正直に話しました。彼女は、別にいいじゃん、といつものように笑いました。

 

 僕は、少しずつでも自分を変えようと思って、とりあえずまた働くことにしました。正直言うと、当時はバブル全盛で、仕事は探せばいくらでもありました。特に割りが良かったのは現場系で、建設現場をよく選んで働きました。その時に色々と仕事のやり方を覚えたので、今も建設業で働いているんだと思います。お金が入ると彼女を誘って、少し高めの焼肉なんかをご馳走したりするようになりました。

 

 でも、どういうわけかそのくらいの時期から、彼女と会う回数は減りました。僕が働き始めて、以前ほど予定を合わせづらくなったというのもあるんですけど、彼女の方で最近仕事が忙しくなってしまってしばらく会えないと言われることが多くなりました。たまに会っても、以前のように会話が盛り上がることもなくなってきた気がしました。もしかしたら、僕が最近の自分の仕事のことを、大変だけどやりがいのある仕事だとか、今東京にどんどん建っている高層ビルはまさに僕らが建てているんだよとか、そんなことを、求められてもいないのに元気に話しすぎていたのかも知れません。

 

 やがて彼女は、電話にも出てくれなくなりました。今みたいにスマホなんて無い時代ですから、家の電話が繋がらなければ彼女と連絡を取る手段はありませんでした。せめて自分の最後のプライドだけは守ろうと思って、彼女の家まで行って会おうとするようなことはしませんでした。

 

 あれから30年経ちました。結局、僕の中身はあの頃と何一つ変わってないように思います。

 でも、懐かしいなあ。いや、別に懐かしくはないか。今でもしょっちゅう思い出すから。

 

 

…あの、さっきから僕、自分のことばっかりペラペラ喋ってますけど、聞き取りってこんな感じでいいんですか?

…そうですか。ならいいんですけど。なんか変な学問なんですね、シャカイガクって。

 

 

 

《おわり》

 

『雪』

 上司から今日は全員さっさと帰って下さいと言われ、定時より少し早くオフィスを出た。年度末の山積みの仕事から逃れる言い訳ができた。明日から余計に大変になることもわかっていた。

 

 午前中から降り始めた雪はわずかに強くなっていたが、気象庁が大袈裟に警告していたほどではなかった。踏むたびにムギュムギュと鳴る雪の上を歩いた。それだけで楽しかった。仕事で扱う会社のカネや、ゼイキンや、サイケンやサイムは、男にとって時に全てが画面の向こう側のフィクションのように感じられたが、目の前の冷たくて白い雪は現実だった。

 

 交差点を左に渡ると男がいつも使う地下鉄永田町の階段だ。しかし、今日は交差点をまっすぐ前に渡って赤坂の方へ歩いた。特にどこか行く当てがあったわけではない。ただもう少し地上にいたかった。

 

 赤坂の繁華街は、通り沿いは明るいが、少し折れると驚くほど暗く狭い路地が沢山ある。その路地を歩く数十秒間の、身体が周りに黒く溶け出していくような感覚が好きだった。ふと路地の脇を見ると、小さなバーの看板があった。「bar タナカ」と黄色く灯っている。看板の下の方にガムテープが横に真一文字に貼られていて、その上から「張り切って営業中!」とマジックで書かれている。バーなのに「張り切って営業中!」とはいかにも妙だ。字も汚い。この店には絶対に何かあると男の直感が働いた。階段を地下へ降り、ドアを開けた。

 

 店の中は、奥へと長く、しかし狭い空間だった。カウンターと小さなテーブルが二つ。カウンターの一番奥の席に客が一人座っていた。他に客はいない。その客の前には、カウンターを挟んでマスターが立っていて、客と何やら会話をしていた。

 

「でもさあ、そんなの作られちゃったら店側はたまったもんじゃないよ」

「そうなんだよなあ。そこさえクリアできれば完璧なんだけどなあ」

 

 店に入った男は、コートを脱ぎつつカウンターの手前から二番目に座った。やがてマスターがこちらにやってきて、おしぼりを広げて渡してくれた。

「いらっしゃいませ。はい、どうぞ。こちらのおしぼりはですね、メタルスネークガスを配合してあるんです。殺菌効果抜群です。でもあんまり触りすぎないで下さいね、手がただれますから」と言った。

 男は言われるままにおしぼりを受け取り、注意深く一度だけ手を拭いた。メタルスネークガスが何なのかは全くわからなかった。それでもどこかリラックスできたのは、店内のステレオでバド・パウエルのピアノが流れていたからかも知れない。

「うちはね、メニューがないんです。その代わり、飲みたいものがあったら自由に言って下さい。何でも作りますから」とマスターが言った。

 こういうときはマスターのチョイスに任せるのが一番だ。ただし酒の種類は最低限指定した方がいい。

「じゃあ、何かおすすめのウイスキーをシングルのロックでいただけますか」

「かしこまりました。ちょうどこの間、エジプトから買い付けた珍しいのがありましてね。ナイル川のほとりに生えているハーブを大量に燻したウイスキーなんです。強烈ですよ」

「…ぜひお願いします」

 

 マスターは小ぶりなロックグラスに氷を3つ入れると、カウンターの下から紫色のボトルを取り出し、液体をグラスの三分の一ほど注いで、こちらに持ってきた。

「どうぞ」

「ありがとうございます」

 グラスを口元に近づけると、正露丸の匂いがした。一口含むと、やはり正露丸を水に溶かしたような匂いと、舌の痺れが広がった。男は目を少し閉じ、やや間を置いて、

「イケますね」と言った。

「そうでしょう」

 マスターは満足そうに戻っていった。

 

 男は、ふと、奥のカウンターに座っている客がこちらに視線を向けているのに気がついた。客は中年男性風で、サングラスをかけている。しかし口元は穏やかに笑っていて、じっとこちらを見ている。男は軽く会釈を返した。それを合図のように、客は

「ここは初めてですか?」と訊いてきた。

「はい、看板を見つけて、ちょっと気になって」

「そうですか。外、雪はどうでしたか」

「うーん。思っていたほど降ってはいなかったです」

「そうですか。まあでもね、ちょっとの雪でも電車とか、止まっちゃいますからね。通勤なんか大変ですね」

「ええ」

 

 少し会話が途切れたので、今度は男の方から話を振った。

「お仕事は、毎日通勤ですか」

「…ええ、まあ」客の口元からわずかに笑みが消えた。

「そうですか。僕もなんです。ちなみに、どういった職種ですか」

「…まあその、今はフリーで、コンサル業なんかをやっています」

 男は、少しわるく思った。およそコンサルティング業など、この世で最も実体のない、最もフィクショナルな業種である。それをフリーランスで名乗るなど、基本的にロクな仕事ではない。収入はゼロに近いかも知れない。それを告白させてしまったことをわるく思ったのだ。

 しかし、男の中に、ほんの少しだけ優越感が灯ったのも事実だ。自分は毎日、我慢してまともに会社で働いているのだから。男は出来心でまた訊いた。

「ははあ、コンサルですか。どんな案件をやったりしていますか」

 すると、客の口元にまた笑みが戻った。

「うーん、色々やってきましたねえ。例えば、クラゲアイスなんか、俺がやりましたねえ」

「クラゲアイス?」

「ええ。ひと昔前にね、北陸の方で、エチゼンクラゲが海岸に大量発生しましてね。地元の漁業関係者をほとほと困らせたんですよ。それを聞いてね、俺はビッグチャンスだと思いましてね。現地の漁協に行って、飛び込みで案を出したんですよ。クラゲを片っ端から捕まえて、冷凍して粉砕して、アイスクリームにして売りましょうってね。どうしてアイスクリームかわかりますか」

「いえ」

「アイスクリームは子供が好きでしょう。だからアイスクリームにしちゃって、給食で配るんですよ。給食は地域ごとにまとまって作るものだから、採用されればドカンと売れるんですよ。これが大当たりしましてね。地元の新聞にも載ったりなんかして、ありゃ良い仕事しましたね」

 男は、俄にこの客に興味が湧いてきた。

「へえ。それ、僕も食べてみたいなあ。今も売ってるんですか?」

「今は作ってないですよ。獲りすぎてクラゲが居なくなっちゃいましたからね」

 もっとこの客の話が聞きたくなった。

「そうでしたか。最近だと、どんな案件をやっていますか」

「それがね。実は今日そのことで、弟に相談に来てるんです」

 弟というのは、どうやらマスターのことらしかった。

「…でも兄さん、今回のは、さすがにダメと思うよ。店側が納得しないもん」弟が言った。

「そこを何とか考えようって言ってるんじゃないか」

「あの、今回の、というのは?」

 男が訊くと、兄はまたどこか嬉しそうに話し始めた。

「最近、コロニウイルスが流行ってるでしょう。コロニのせいでみんな遠出しにくくなっている。ところで、人が遠出したがる目的は何だと思いますか」

「それは…その場所にしかない雰囲気だったりとか、非日常感とかを体感したくて…」

「ダメダメ。お客さん、もっと具体的に。物事ってのはね、もっと具体的に考えないとダメなんです。人が遠くに出かける目的はね、ずばり、メシ。メシですよ。遠くにある、自分がまだ食べたことのないものを食べてみたい。人が遠くへ行くのはこれなんです」

「ははあ」

「それでね、俺、こんなものを作ったんです」

 そういうと兄は、机に置いてあったサイドポーチの中から、まず黒い二枚の絆創膏のようなものを取り出した。そしてそれを自分の両顎の下に貼り付けた。次にまたサイドポーチの中から、輪っかになった紐状のものを取り出した。紐には白いピンポン玉くらいの大きさの球体が一つだけ繋がれている。一目見たところ、猿ぐつわのようだ。あるいは、巨人が身に着ける真珠のネックレスのようでもある。兄はこの紐を男に渡し、

「この猿ぐつわを口にはめて下さい」と言った。男は受け取り、言われた通りに口にはめた。

「口のボールの横に小さいボタンがありますから、それを長押しして下さい」と兄が言った。

 男がボタンを長押しすると、ピピっと音が鳴って、口のボールがベージュ色に発光した。兄はそれを確認すると、

「それじゃ、俺が今から何かを食べますから、その味があなたの口の中にもいきます。ほら、最近、ワイヤレスイヤホンってあるでしょう。あれと同じ理屈で、俺の口の中の味覚を、Bluetoothであなたの口の中に飛ばすんです。感じてみて下さい。じゃあ、ヒロシ、いつもの作ってくれ」

「ローストビーフ丼ね。はいよ」弟は待ち構えたようにローストビーフ丼を作り始めた。

 どうやら兄は、ローストビーフ丼などという品性のかけらもない料理を好むらしい。しかしそれで良いのだ。ローストビーフ丼を食べるような人間がもつ、底知れぬ爆発力のようなものがこの世には存在するのだ。

 やがてローストビーフ丼が兄の前に出された。男は口に猿ぐつわをはめたまま、ずっとそれを見ていた。

「じゃ、食べます」

 そう言うと兄はスプーンでローストビーフと白米を口に運んだ。その瞬間、男の舌の上に異物感と強い匂いが広がった。すぐにそれらは輪郭をもった。冷たい肉汁、やや甘すぎるオニオンソース、そして白米の食感と匂いを、男ははっきりと認識した。現実には口の中には何も入っていない。しかし、口の中には確かにそれらがあった。さらに不思議なことに、兄の顎の咀嚼運動と全く同じ動きが、男の意思とは無関係に男の顎にも現れた。

 兄は次々に丼の中身を口に運んだ。男はそのペースについて行けず、ゲホゲホとむせた。たまらず、両手で顔の前にバツを作って兄に意思表示をした。

「ボールの横のボタンをもう一度だけ押してください。長押しじゃなくて短く押して。それが一時停止になります」

 男はあわててボタンを押すと、食感も匂いもふっと消え、ただ匂いの余韻だけが微かに鼻腔に残った。男は猿ぐつわを外し、口に溜まった唾液を飲み込み、しばらく呆然としていた。

 衝撃的な体験だった。技術の新しさ以上に、自分の中の価値観のようなものが、何か大きく変わったような気がした。

 兄は呑気に話し始めた。

「この装置があれば、お店で食べた味を、離れた場所にいる人にもそのまま味わわせてあげることができる。これ、今のご時世に良いでしょう?」

「でも、兄さん。こんなもの作ったら、店側からしたら、ますますお客が来てくれなくなるじゃないか。第一、お店の味を外に配信するなんて、法律的には店側の許可がないとやっちゃいけないはずだよ。そんな許可する店なんてあるかよ」

「だから、そこを何とか考えようって言ってるんじゃないか」

「…いや、僕は、これは、確実に広がると思います」ふと男が口を開いた。

「この装置は、バーチャル技術でしょう。バーチャルってのは、要はニセモノの体験ってことです。しかしこれは実によく出来たニセモノだ。よく出来たニセモノほど、かえってホンモノの価値を高めます。ニセモノとホンモノの間の微妙な差に、人は思い焦がれるんですよ。この装置でお店の味を体験した人は必ず、実際にお店に行ってみたくなるはずです。だからこそ、このバーチャルの価値は、リアルなものなんです。協力してくれるお店を、これからどんどん探しましょう」

 男の言ったことを、弟はよく理解できなかったのか、しばらく戸惑った表情を浮かべた。しかしすぐに兄の方を向いて、

「良かったね、兄さん。協力してくれるってさ」と言った。弟は、自分の主義主張よりも兄の方が大事だった。

 

 その後、男はしばらく兄と話し込んでから、兄の連絡先を聞いて店を去ろうとした。兄は、自分は二か月前から電話代を払っていないから電話が止められている、用があったらこの店に来てくれ、大体毎日ここにいるから、と言った。男は代わりに店の電話番号を聞き、飲み代を払って店を出た。久々に男の気分は高揚していた。

 

 雪は明らかに強くなっていた。一歩一歩、イメージを踏みしめるように歩いた。坂を上って、地下鉄の六本木一丁目まで。

 

《おわり》